【第1回】自然とよりそい、緑がつなぐ都市再生

東日本大震災から半年が過ぎ、今、われわれが振り返らなければならないのは、日本人は自然と向き合うとき、どのような発想をもっていたかということ。物理的に凌駕するのではなく、自然を読み解き、どのように往なしていくのかが、伝統的土木技術の論点であった。そして自然とよりそう暮らしの中から祭りが生まれ、人と自然、人と人、地域を繋ぐコミュニティ―の中心となり、そこには繋ぎ手となる緑が存在していた。

涌井 史郎(わくい しろう)

造園家・ランドスケープアーキテクト。鎌倉市生まれ。東京農業大学農学部造園学科出身。人と自然の空間的共存を図る造園技術をベースに、数多くの作品や計画に関わる。平成17年 愛・地球博 会場演出総合プロデューサーを務める。東京都市大学環境情報学部教授、中部大学教授、桐蔭横浜大学・東京農業大学客員教授、2010年より生物多様性広報参画委員会座長。 TBS「サンデーモーニング」出演。

エコアカデミーインタビュー

1. 負けるが勝ちのデザイン

彼は、関東大震災を評してそういうメッセージを残しました。我々は、「天災は忘れたころにやってくる」の策さえ忘れ、彼の言葉すら忘れている。まったく情けないなというのが、今の私の意見です。

今、振り返らなければならないのは、日本人は自然と向き合うとき、どういうひとつの発想をもっていたかということ。それは、「負けるが勝ちのデザイン」なんですね。
日本人の発想っていうのは、自然を支配してやろうとは考えず、自然と向き合った時、自然を読み解き、それを物理的に凌駕しようとは考えず、どうやって往なしていくかが、伝統的土木技術の最大の論点だったんです。

六本木ヒルズから東京

例えば、武田信玄や加藤清正の霞堤【※2】。洪水の流量を制御しようという発想ではなく、いかに流速を制御するかということに着目して水制工法をとっていました。
流速を抑えながら計画的に破堤をする場所を決めておいて、溜まりこんだ洪水をゆっくりと引き込んで、農業利用するなんて工法をとってきたんですよ。
日本人は、ありとあらゆる場面で「負けるが勝ちのデザイン」で、自然と向き合ってきました。

空間的には里山という構図があって、その里山の向こうは奥山とか後山、岳という発想がありました。奥山は神の領域で、その生態系サービス【※3】を人間の都合で、勝手に消費してはならないという原則を作って、その一方で、里山から内側は、野辺があって野良があってそして里があって、里地・里山の部分は、人が積極的に自然にかかわることによって、恒常的な生態系サービスを享受する。そういう知恵をもっていました。
日本人は、自然とよりそう形でどうやって人間の生活を存在させるかという、最大の英知を傾けてきたんですよ。

里地(谷戸田の風景)

東北の海岸林にも、自然とよりそう形が見られました。
東北の沿岸の農山漁村でなにが一番課題かと言うと、特に、海浜部の砂浜のあるところは、砂に埋もれない集落、砂に埋もれない農地をどうつくるかが最大の課題で、そこに傾注して、海岸防潮林をつくってきました。
震災で被災した陸前高田の松原もそうです。あれは知恵の結晶で、当初はクロマツを植えていたけれど、その後200年くらいたって、アカマツをその中に入れたんですよ。クロマツは倒伏するけど、アカマツは折れる。倒伏したところに、折れたアカマツが重なることによって、津波によって沖合に流された残材がそこに引っかかるという効果をもっていたんですよね。日本人は、自然のことを良く読み解いてきたと思います。

自然を傍らに置きながら、すべてのことを考えていくという日本人の発想が、いつの間にか西洋の近代科学の延長線上にたって、自然は支配できるものだと、自然は人間の思いのままにできると発想したところに大きな間違いがあったのではないでしょうか。

したがって、もう一回われわれは、日本独特の自然とよりそうという考え方、「負けるが勝ちのデザイン」の中にみる、何が主で、なにが従であるかを見なおす必要があります。
われわれが従であり、自然が主であると考えるという発想を再構築するという、そういうメッセージを今回受けたのではないかと思います。

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2. 江戸の祭りに学ぶ地域コミュニティー

日常生活をしていると、どうしても日々の暮らしに追われて、10年前の地震や大火を忘れてしまう。江戸はしょっちゅう大火など災害と向き合わなければならない土地だから、どうしても、防災訓練が必要だったのではないでしょうか。
そういうハッサージで一番大きな問題としては、重量物をどうやって動かし、大量の人間をどうやって、さばいていくかがすごく大事なわけですよ。
誰が、どのような機能をもって、どうゆうふうに役割分担するかということ、これは、実は祭りはすべてこれを充足します。だから江戸のまつりの主役は火消しだったりするんですよ。

防災組織がそういうものに相当しています。すなわち、もう一度、コミュニティーの再生を図るっていうのは、単に考えるのではなく、もう一回地域ごとに、地域特性にあった、イベントをね、地域共同ができるイベントを重視して、日常の暮らしの中に、そういう設えを作り出し行くかをソフトパワーとして考えていくべきだと思います。
そういう意味で、当時世界で一番の大都市であった江戸の暮らしの中に非常に大きなヒントが隠されている。そこをもう一回発掘して考えていく必要があるのではないか、というのが僕の主張です。

3. 緑がつなぐコミュニティ―

コミュニティーといっても、何を中心にコミュニティーをつくるか考えると、選挙を中心に作るというのは、ナンセンスですよね。一方、地域の緑を育てていきましょう、地域を豊かにしていきましょう、そういうコミュニティーであれば、みんな一生懸命参加してくれるわけですよ。ある種の「緑はつなぎ手」なんですよ、緑は媒体なんですよ。
そういう意味で緑を評価すると、非常にものがわかりやすいのではないでしょうか?

具体的な例を言うと、ニューヨークのハイライン【※8】ですよね。
マンハッタン島の端のあたり、昔、食肉加工場や食にまつわる倉庫、工場地帯が多く、そこに平面交差すると事故が多かったので、ハイラインという高架鉄道を通したんです。けれども1950 年代になると、トラック輸送が盛んになり、貨物輸送が衰退してしまいました。

鉄道は放置され、錆びつき、同時に街も活力を失いました。そこでニューヨーク市が、鉄道を取り壊す計画を出しました。ところが、地域の市民が立ち上がって、全長6.8kmの路線跡を公園にしようと活動を始めました。なぜかというと、雑草が生え、ウルシ類の木が生え、いい具合で緑が育っていたのです。これを整備すれば、もっとスマートな街になると、市民が中心になり、ジュリアーニ市長の応援のもと、ハイラインという構想が実現しました。 実は、今、この地域がものすごい活性化をしているんですね。
このように、行政主導ではなく、地域住民主導で、都市再生が実現したという実績があります。

このような事例は、意外と多く、緑に着目しながら、コミュニティーの再生や地域社会を支えていく大きな存在として緑をとらえ、その傍らに、防災機能、エコロジカルな機能、都市の暑熱環境の緩和機能と利用し、地域が緑によって繋がれて、そして、絆をふかめて、良質はコミュニティーを形成して、様々な環境問題に対応していくことができるのではないでしょうか。

この環境問題ですが、環境ストレスは、どこにしわ寄せがいくかというと、体の悪い人、高齢者など弱者に行きます。今度の津波でもそうでした。
環境ストレスが弱者に行くことを前提にしながら、緑を中心に、いかに絆を深めていくか、そのためには、かつての江戸が、ガーデンシティーとして世界的に評価されたように、大都市でありながら緑量が多かったというところにポイントがあると思います。自然によりそう暮らしと、その自然をコサージ【※9】にした祭があり、そこに防災組織の形があった。これは、現代、減災を考える上で、地域構造をどのように作っていくかが、とても大事であることを示しているのではないでしょうか。
一騎加勢に言ってしまいましたが、こういうことじゃないでしょうか。

4. 緑の担い手はアクティブシニア

5. 国際的都市間競争に打ち勝つ力とは

しかし、東日本大震災、さらに、福島原発事後の影響が与えたダメージは大きく、追い打ちをかけて、円高の影響で、東京にアジア拠点を置いていた外資系企業が、シンガポール、香港、上海、ソウルとアジアの都市に移転し始めている。このような状況の中、東京が国際的な都市間競争に打ち勝つ力をどうやって作るのかが、大きな課題となっています。

急成長をしているアジアの都市には、派手さで競うのではなく、「やっぱり東京っていいよね...」っていう魅力で競うべきだと思います。それは、さっき僕が言ってきたものが可視化されてきた東京っていうのが望ましいんじゃないかな。例えば、外国人が港区に住みたがるのは、緑が多くて、楽しいところが多くて、だからみんな港区に住みたがる。
これと同じ心境で、シンガポールや香港、上海もいいけど、東京の方が、適当な倫理感と楽しさが共存し、安心で安全、しかも美しい、だから東京が一番いいと、決めてもらえるようなものをつくらなければならないね。

魅力っていうのはね、何かというと実は、多様性なんですよ。
サブカルチャー【※11】がないと文化は育たない。
歌舞伎もね、かつては、サブカルチャーですよ。能や狂言にくらべ、品の悪いものと思われていたんです。品のよさと品の悪さの両方がないと、刺激的にはならない。時代とともに、どんどん価値観が変わっているから、サブカルチャーがメインストリームに転換するときがある。いつもそういう風にサメの歯のように、次の用意がサブカルチャーの中に仕込まれている。本当の意味でのクリエイティブな文化って、そんなものじゃないかな。江戸の文化も、洒雑でいきだって言われているでしょ。

それはなぜかというと、人が住まない番外地の文化が、人が住むところに入り込んでいって、ある種の刺激になって、文化を作ってきたんですよ。ある種の遊びがないと、文化は育たない。現在の東京は、それを仕込んでいないというところに危機感を感じますね。

サブカルチャーっていうのは、どちらかというと洗練されていないから、ちょっと汚くて品が悪い、でも、緑が入ることでサブカルチャーを品よくしてしまう。江戸でいうと、吉原の柳とかね、水辺とかね。
緑は、そうゆう意味でも、これからの東京、その魅力をつくる上で、大きな役割を担う存在であると思いますよ。

東北の海岸林にも、自然とよりそう形が見られました。
東北の沿岸の農山漁村でなにが一番課題かと言うと、特に、海浜部の砂浜のあるところは、砂に埋もれない集落、砂に埋もれない農地をどうつくるかが最大の課題で、そこに傾注して、海岸防潮林をつくってきました。
震災で被災した陸前高田の松原もそうです。あれは知恵の結晶で、当初はクロマツを植えていたけれど、その後200年くらいたって、アカマツをその中に入れたんですよ。クロマツは倒伏するけど、アカマツは折れる。倒伏したところに、折れたアカマツが重なることによって、津波によって沖合に流された残材がそこに引っかかるという効果をもっていたんですよね。日本人は、自然のことを良く読み解いてきたと思います。

自然を傍らに置きながら、すべてのことを考えていくという日本人の発想が、いつの間にか西洋の近代科学の延長線上にたって、自然は支配できるものだと、自然は人間の思いのままにできると発想したところに大きな間違いがあったのではないでしょうか。

したがって、もう一回われわれは、日本独特の自然とよりそうという考え方、「負けるが勝ちのデザイン」の中にみる、何が主で、なにが従であるかを見なおす必要があります。
われわれが従であり、自然が主であると考えるという発想を再構築するという、そういうメッセージを今回受けたのではないかと思います。

涌井先生は、これまで、都市から過疎農山村に至るまで幅広く「景観十年、風景百年、風土千年」というお考えのもと、人と自然の空間的共存を図る造園技術をベースに、数多くの作品や計画に関わってこられました。

今回、東日本大震災から、今後の日本、そして東京の再構築をテーマに、日本独特の自然によりそう「負けるが勝ちのデザイン」、江戸にまなぶ街づくりのモデル、今後の国際都市間競争に打ち勝つ東京の魅力づくりについて、幅広くお話いただきました。これらのお話には、「緑」の存在と、自然によりそう人々の姿、そして絆というテーマが貫かれおり、造園家として、自然に向き合い、自然を読み解く、先生のまなざしを感じました。

東日本大震災によって、私たちは自然の驚異を思い知らされましたが、その一方で、今だからこそ、かつての日本人がもっていた自然に向き合う姿勢、まなざしをもつことの大切さに気付く機会を得たと思いました。

インタビュアー 峯岸 律子(みねぎし りつこ)

環境コミュニケーション・プランナー。エコをテーマに、人と人、人と技術を繋げるサポートを実践。
技術士(建設部門、日本技術士会倫理委員会)、環境カウンセラー、千葉大学園芸学部非常勤講師。